
トロンボーンの音を「実測」で当てにいく ── 音色工房①
FM合成の回 では、sin 2つから音色の森が生えるという仕組みを見ました。今回は少し毛色を変えて、開発の実録を書きます。テーマは「本物のトロンボーンに寄せる作業を、勘に頼らず測って前に進める工程に変える」ことです。 合成の方式そのもの——倍音の足し算 、FM、ノコギリ波をフィルタで削る減算合成——は、教科書にもこの連載にも書いてあります。ところが方式を知っていることと、実在の楽器の音を当てられることのあいだには、けっこうな距離があります。パラメータの海の中から「トロンボーンのあの音」にたどり着く手順は、教科書にはあまり載っていません。この記事は、その距離をどう詰めたかという作業記録です。 材料は身内から出します。筆者は Harmonize という音感トレーニングアプリを個人開発していて、正解音のガイドとして鳴る楽器音は、録音の再生ではなくすべて自前の合成です。そのラインナップにトロンボーンを足したときの一部始終が、ちょうどこの話の生きた実例になっています。 Harmonize 相対音感と純正律の感覚を鍛える音感トレーニングアプリ 今すぐ無料でダウンロード App StoreGoogle Play 「おとなしい」では直せない 最初に作った版(v1と呼びます)は、いちおうトロンボーンには聞こえました。ノコギリ波をローパスフィルタで丸めた、金管の顔をした音です。ところが実機で鳴らしてみると、感想はひとこと「おとなしい」。本物のトロンボーンが持っている、中低音の張り、音の芯が前に出てくる感じがないのです。 問題は、この感想が改良の役に立たないことです。「おとなしい」から何をどうするのか。フィルタを開く、倍音を足す、音量を上げる——手はいくらでも思いつきますが、どれが正解かは感想からは決められません。勘でつまみをいじり、聴いて、またいじる。これを繰り返しても、良くなったのか悪くなったのかさえ、だんだん分からなくなってきます。耳は「何かが違う」と気づくことにかけては優秀なのですが、どこを・どちらへ・どれだけ直すかを言い当てるのは苦手なのです。 そこで方針を変えました。耳の感想を、測定値に翻訳するのです。 やることは図のとおりで、まず手本になる実物の音を FFT——音の波形を「どの高さの成分がどれだけ含まれているか」に分解する計算——にかけて、目指すべき音の姿を数値のカードにします。あとは自分の合成音も同じ物差しで測り、カードと見比べながらレシピを直していく。目標が数値なので、一手ごとに「近づいたか、遠ざかったか」がはっきり分かります。音色作りが、当てずっぽうから測定のある工学になります。 手本を測って、目標数値を立てる 都合のいいことに、手本はすぐ近くにありました。アプリには効果音として、本物のトロンボーンで演奏された録音がひとつ同梱されています。この録音を FFT にかけて、倍音——基音(音程を決めるいちばん低い成分)の2倍、3倍……の高さで一緒に鳴っている成分——の大きさを測りました。 結果は少し意外なものでした。いちばん大きいのは基音ではありません。第2倍音が基音より 5dB も大きく、第3倍音が基音より 3dB 小さいだけでほぼ肩を並べ、第4倍音が 9dB 落ち。エネルギーの大半は 500〜1000Hz の帯域に集まっていました。トロンボーンの「張り」の正体は、基音の上に乗った中域の倍音たちが主役を張っていることだったのです。 もうひとつ、全体をひとつの数字に要約する指標として、スペクトル重心も測りました。スペクトル重心とは、周波数成分をエネルギーの重みで平均した「音の明るさの重心」で、高い成分が多い音ほど重心は高くなります。フィルタの回 で「高い成分を削ると音がこもる」という話をしましたが、その明るさ・こもり具合を1個の数値で言い表せる物差しです。手本の実測値は約 1.7kHz。こうして目標のカードがそろいました。第2倍音 +5dB、第3倍音 −3dB、第4倍音 −9dB、重心 1.7kHz。ここから先の作業は、この4つの数字を当てにいくゲームになります。 レシピ ── ノコギリ波を3系統に分けて削る 合成の方式には、倍音が全部入ったノコギリ波からフィルタで不要な成分を削り出す、減算合成を使いました。素材のノコギリ波には基音の整数倍の倍音がひととおり含まれているので、あとは「どこを残し、どこを削るか」の設計がそのまま音色になります。 鍵になるのはフォルマントです。フォルマントとは、楽器の管や人の口の形で決まる「よく響く固定の帯域」のことで、音程を変えても動かないのが特徴です。人の声の母音がこれで決まるという話はフォルマント合成の回 に書きましたが、金管楽器も同じで、管とベル(先端の朝顔)の共鳴が特定の帯域をいつも持ち上げています。そこでノコギリ波を3系統に分け、それぞれ別のフィルタを通しました。1系統目は 2.8kHz のローパスフィルタで、音の体になる低域〜中域をそのまま残す「胴鳴り」。2系統目は 620Hz を中心とするバンドパスフィルタ(決まった帯域だけを通すフィルタ)で、手本の主役だった第2倍音のあたりを持ち上げる第1フォルマント。3系統目は 950Hz の第2フォルマントで、第3倍音の張りを受け持ちます。3つを 0.35 : 0.6〜1.0 : 0.7 の重みで混ぜると、目標の倍音バランスの土台ができます。 混ぜたあとに、もうひと味あります。tanh 関数で波形の頭を軽く潰すドライブ(サチュレーション)です。波形の形が変わることは倍音の構成が変わることなので、潰せば潰すほど倍音が増えて音は張り出します。ギターの歪みと同族の現象で、金管の「ブリッ」とした質感はここから出ます。さらに時間方向の演出として、音量は 45ms かけてふわっと膨らみ、明るさ(第1フォルマントの重みとドライブ)はそれより遅い 100ms で開くようにしました。金管のスウェルは音量が先、明るさが後から追いかけてくるからです。おまけに出だしの 10ms だけ、息の当たるノイズ(チフ)を薄く混ぜてあります。音量の輪郭が楽器の顔を決めるという話はエンベロープの回 のとおりで、ここでも効いています。 ...



