明るい窓をじっと見つめてから目を閉じると、窓の形が反転した残像がしばらく浮かんで、やがて消えていきます。誰でも一度は経験したことがあるはずです。同じことが、耳にも起きます。
ザーというノイズを数秒聴いてから、ふっと止める。その直後の静けさのなかに、かすかな「ピー」という細い音が残って、数秒かけてすっと消えていく ── とされています。スピーカーは完全に沈黙しているのに、です。
はじめに正直に書いておきます。この記事を書いている私自身には、この音が聞こえませんでした。あとで触れる条件を文献どおりに揃え直し、静かな部屋でイヤホンを付けて、何度も鳴らしては止めてみましたが、静けさは静けさのままでした。だから以下は「聞こえた」という体験談ではなく、聞こえるとされているものが何で、どういう仕組みだと説明されていて、なぜ人によって聞こえたり聞こえなかったりするのか、という話になります。
ツヴィッカートーンと呼ばれるこの錯覚は、1964年に音響心理学者エバーハルト・ツヴィッカーが報告したもので、この連載の「耳のバグ」の棚では差音 ・ミッシング・ファンダメンタル ・シェパードトーン ・リセ・リズム ・連続性の錯覚 に続く6本目です。
仕掛けは、ノイズに開けた「穴」にある
ただのノイズを止めても、この残像は生まれません。仕掛けは鳴らす側にあります。
広い範囲の周波数をまんべんなく含んだノイズを用意して、その中の狭い帯域だけを、フィルターですっぽり抜いておくのです。1オクターブぶんほど、ぽっかりと穴を開けた状態。聴いてみると、ほとんどただのノイズと区別がつきません。少しくぐもったような気もする、という程度です。
ところが、これを止めた瞬間に、抜いたはずの帯域に音が生まれる ── というのが報告されている現象です。しかも生まれる音の高さは、抜いた穴のど真ん中あたり。穴の位置を変えれば、残像の高さもそれについてくるとされています。鳴らしていない場所にだけ音が現れる、というのがこの錯覚のいちばん奇妙なところです。
抑え合いが崩れた反動
なぜ、鳴っていない場所に音が出るのか。有力な説明は、聴覚が持っている「抑え合い」の仕組みにあります。
耳の中では、周波数ごとに担当の神経が並んでいて、隣り合う担当どうしが互いを抑え込んでいます。側抑制と呼ばれる仕組みで、これは視覚にもある一般的な作りです。強く反応している担当が、その隣を押さえつける。おかげで音の輪郭がくっきりし、ぼんやりした音の中から特徴のある成分を拾いやすくなります。
ここでノイズに穴を開けると、何が起きるか。穴の担当だけは、自分は何も受け取っていないのに、両隣のにぎやかな担当から強く抑え込まれ続けます。ずっと押さえつけられた状態です。そしてノイズが止まった瞬間、両隣は静かになり、押さえつけていた力がふっと消える。抑えを失った穴の担当が、その反動で一時的に暴走する ── その暴走が、鳴っていないはずの音として聞こえる、という筋書きです。目を閉じたときの残像が、明るさに順応していた細胞の揺り戻しであるのと、よく似た構図です。
ここまで読むと、耳鳴りも同じ仕組みなのではないか、と思う人がいるはずです。実際この錯覚は、耳鳴りの研究で模型として使われています。理屈のうえでは筋が通っていて、加齢や騒音で内耳のある帯域が働かなくなると、その帯域からの入力が脳に届かなくなる。つまり耳の内側に、あの「穴」が居座った状態になるわけです。そこで抑え合いの均衡が崩れて音が生まれる、という説明は、ツヴィッカートーンに対するものとほとんど同じ形をしています。耳鳴りのある人はこの残像を聞き取れる割合が高い、という報告もあります(耳鳴りのある人で91%、ない人で42%)。
ただし、同じものだと言い切るのは行き過ぎです。ツヴィッカートーンは健康な耳に数秒だけ起きて消えるもので、耳鳴りのように何か月も続く状態ではありませんし、聴力が傷んでいなくても起こせます。そもそも耳鳴りのある人を対象にした研究はまだ1本しかなく、2025年のレビューも「両者を結びつけるにはさらに研究が要る」と結論しています。似た説明で語られている、健康な耳で一時的に真似られる、というところまでが今わかっていることです。
なお、静かな部屋に入った途端に「ピー」と聞こえるあの感じは、これとは別物と考えたほうがいいでしょう。周りの音が消えて、もともとあった小さな音に気づいただけということもあれば、機器の出す本物の高い音のこともあります。ツヴィッカートーンは、穴を開けたノイズを聴かせて止める、という手順を踏まないと起きません。
触ってみる
デモを用意しました。鳴らし方が2通りあります。
既定は「刻む」です。0.1秒鳴らして0.1秒黙る、を20秒くり返します。1回だけ鳴らして止めると、残像は1〜2秒で消えてしまい、身構えていないと取り逃がします。ところが短い刻みをくり返すと、黙っている合間に残像が入り込み、途切れずに続いて聞こえる ── 刻みで残像が続くこと自体はレビューが報告している性質ですが、どちらが気づきやすいかを私がきちんと比較したわけではありません。ザーザーという刻みの「すきま」に耳を向けてください。もう一方の「1回だけ」は、8秒鳴らしてひと息に止めるやり方です。ツヴィッカー自身は60秒のノイズを使っていたので、8秒でも短いほうになります。
冒頭に書いたとおり、私には聞こえませんでした。それも珍しいことではなく、2025年のレビューによれば、近年の研究で聞き取れた人の割合は3〜5割程度です。1964年にツヴィッカーが「9割の人が聞こえる」と報告したのに比べるとずいぶん低い。ただしこれは研究ごとに刺激も判定のしかたも違う数字を並べたもので、人口全体での確定した割合ではありません。少なくとも「誰にでも簡単に起きる」現象ではない、という程度に受け取ってください。何度やっても分からなくても、耳が悪いわけでも、この話が嘘なわけでもありません。
デモの刺激は、比較的出やすいとされる条件に寄せてあります。穴の中心は4kHz付近、幅は1オクターブ、穴の深さは30デシベル以上。ただしこれは必要十分条件ではなく、他の周波数や幅でも報告はあります。合わせられたのは周波数の形までで、耳に届く音圧は端末やイヤホンで変わるため校正できていません。静かな部屋で、イヤホンで、音量は控えめに。うるさいほど出やすいわけではないようです。
うまく表示されないときは、デモを別タブで開く 。
比較用に「穴なし」も置いてあります。同じ長さの普通のノイズで、こちらでは残像は出ないとされています。音量は厳密には揃っておらず、穴を開けたぶんエネルギーが減るので、実測すると穴ありのほうが1.4デシベルだけ小さくなります。穴を開けるかどうかだけで、止めたあとの静けさの中身が変わるかどうかが決まる、という理屈です。聞こえた人は、穴の中心を動かすと残像の高さも一緒に動くのが分かるはずなので、そこまで試してみてください。
正直に書いておくと、この錯覚は聞こえ方の個人差がかなり大きく、慣れも要ります。イヤホンで、静かな場所で、音量は控えめに。そして止まった直後の1秒に意識を集中してください。それでも聞こえない耳もあります。聞こえないこと自体は、耳の性能とは関係ありません。
どう実現するか
デモの中身は、ノイズにフィルターをかけているだけです。乱数を詰めたバッファをループ再生し、上下をフィルターで挟んで帯域を制限したあと、目的の帯域を抜きます。
ここで素直にノッチフィルターを使うと、うまくいきません。ノッチは中心周波数だけが深く凹むV字の谷で、狙った帯域の縁はほとんど落ちないからです。実際、半オクターブぶんの穴を開けたつもりで3段重ねても、縁では9デシベルしか下がっていませんでした。必要なのは底が平らな帯域除去なので、低い側と高い側に分けて通し、あとで足し合わせます。
// 低域側と高域側に分けて通し、足し合わせて「穴」を作る
const loCorner = notchF * 2 ** -0.5 / 1.25; // 穴の下端より少し下
const hiCorner = notchF * 2 ** 0.5 * 1.25; // 穴の上端より少し上
let low = source, high = source;
for (const q of BUTTER_Q) { // 16次バターワースのQ列
const l = ac.createBiquadFilter();
l.type = 'lowpass'; l.frequency.value = loCorner; l.Q.value = q;
low.connect(l); low = l;
const h = ac.createBiquadFilter();
h.type = 'highpass'; h.frequency.value = hiCorner; h.Q.value = q;
high.connect(h); high = h;
}
low.connect(master); high.connect(master);
コーナーを穴の外側へ少し追い出しているのは、遷移の傾きぶんを穴の外で使い切って、穴の中を端から端まで深く保つためです。この構成で、2828〜5657ヘルツの全域が30デシベル以上落ちます。実際に鳴っている音を測ると、帯域の縁で30〜37デシベル、中心では66デシベル下がっていました。
数字の勘どころが2つあります。ひとつはいま見た穴の深さで、浅いと知覚が安定しないと報告されています。もうひとつは止め方で、抑えが外れる反動が主役という説明に従うなら、ゆっくりフェードアウトさせるより、スパッと切ったほうが有利なはずです。デモでは10ミリ秒で切っています。完全な瞬断にするとプチッというクリック音が出てしまうので、その手前の急峻さを狙う、という調整です。
参考文献
- E. Zwicker, “‘Negative Afterimage’ in Hearing,” The Journal of the Acoustical Society of America, vol. 36, no. 12 (1964), pp. 2413–2415. DOI: 10.1121/1.1919373 。この錯覚を「聴覚の陰性残像」として報告した原論文。
- 知覚できる人の割合、刺激条件(穴の中心・幅・深さ・長さ)、耳鳴りとの関係については A. Hardy et al., “The Zwicker tone as a model to investigate auditory processing and tinnitus: a scoping review” (2025) PMC12411427 にまとまっています。本記事の数値とデモの設定はこれに拠りました。
- 側抑制との関係や耳鳴り研究での位置づけは Wikipedia: Zwicker tone がまとまっています。
- デモの実装には Web Audio API を使用。ホワイトノイズを BiquadFilterNode を16次バターワースのローパス/ハイパスに組んで並列に足し、1オクターブの帯域を30デシベル以上落として削り、GainNode で急峻に停止しています。
私には聞こえませんでしたが、それは半分くらいの人に起きることで、この現象が怪しいという話ではありません。もし何か聞こえたら、鳴っていない帯域に音を感じているということになります。聞こえなかったら、同じように聞こえない人が半分近くはいる、ということになります。どちらだったか、ぜひ試してみてください。
連載「サウンドプログラミング」
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